【レトロゲームレビュー】『いっき』の思い出

――発売から30年余り。

稀代の名作として、今もなお語り継がれる「いっき」。
窮乏する農民の生活を如実に表したストーリーラインもさることながら、自らの置かれた状況を打破せんと立ち上がった主人公たちの持つ「狂気」とも呼べるタフさも、本作を語る上で重要な要素であろう。

「竹やり」、「おにぎりキャッチ」など随所に盛り込まれた斬新な要素とは裏腹に、画面を通じて漏れ出す独特の「イモ臭さ」。
これらがまさに当時のユーザーの潜在的欲求をダイレクトに刺激し、発売後またたく間に「いっき」は国民のバイブルとなったのである。

 

そして、今。
世代は移り、多様化の一途をたどるユーザーのニーズと共に、ゲーム業界のあり方も随分と様変わりした。
絶えず変化を続ける時代の中で、途切れず生み出される数多のゲームソフトたち。今や飽和状態にあると言っても過言ではない。
押し寄せる混沌の波を前に、我々は真に目指すべき道標を見失いがちだ。

ならば、今こそ「原点」とも呼べる地点に立ち返ろう。
そう、「原点」すなわち「いっき」に――。

現代社会に生きる我々が、「いっき」から学ぶべき事とは――。

 

 

まず、やったことがない。
ファミリーコンピュータを持っていないからだ。
いや、仮に持っていたとしても、このソフトを手に取ることはなかっただろう。

やったことがないから「原点」でもなんでもないし、立ち返る必要も、また学ぶべきことも何一つない。
人生においては何事も経験であるが、あらかじめ過ちだと解っていれば、それをする必要は全くない。

言うなれば、「刑務所の中の生活」は経験ではなく、知識として持っておけばいいのである。
情報に溢れたこの世界では、知識はいくらでも手に入る。しかし、忘れてはならないのは、知識は経験の積み重ねから生まれるものであるということだ。

つまり、過ちを過ちと示すために自らを犠牲にし、後世のための礎になった者たちが存在したということ。
彼らに対しては常に敬意と畏怖の念を持ち続けなくてはならない。

 

早速、「いっき」で検索してみた。
いっきに一致する日本語のページ 『約 1,530,000 件』なんて数だ。
おびただしい数の、いわば犠牲者たちの断末魔ともとれる「いっき」に対する想いが、まるで墓標のごとくネット上に点在している。

 

さすがに全て見るわけにはいかないので、はじめのほうのいくつかのページを見てみた。
なるほど案の定、「クソゲー」のようだ。「いっき」について解ったことをいくつか以下にまとめる。

 

・たった2人で「いっき」を起こしたこと
・「竹やり」はパワーダウンアイテムであること
・なぜか「小判」を集めることがステージクリアの条件であること
・腰元がうざいこと
・エンディングが存在せず、永久ループすること

 

……もういい。よくわかった。
今なら自信をもって言える。やらなくてよかった。

 

最後に一点、「いっき」について言っておきたいことがある。下図、緑色の楕円で囲った部分を見て欲しい。
「おかしいゲーム」に変更してはどうか。